国富五郎衛門に関する諸説

天心流兵法(江戸伝天心流)の第5世師家・国富五郎衛門は、未だにその詳細な経歴が明らかとなっていない。

元・国際水月塾武術協会姫路支部(現在は脱退)である古武術保存会「月輪堂」は、かつて国富家の家譜を調査し、五郎衛門の名を見つけることが出来なかったため、その存在を否定した。

しかし、現存する家譜に名前が見つからなかったからといって断言的に存在を否定することは、歴史学的調査における常識に則しても非常にナンセンスである。

実際、五郎衛門の存在を否定した月輪堂は、誤りを認めて自らの主張を撤回し、公式ブログにて以下のように釈明している。


「別に他所から圧力がかかって前回の記事の公開を止めた訳ではありません。
単純にちょっとキツい事を書きすぎたと反省したからです。
振り替えってもやはり私は冷静ではなかった。
人様にあんな風にあれやこれや言えるような立派な人間でもないし、前回の記事は、優しさのない配慮にかけたものだったと、反省したから公開を止めた訳です。
ただ、それだけの理由です。」
http://itidensai.blog.fc2.com/blog-entry-567.html


そもそも、国富家の家譜の中には何らかの理由で失われたものも多く、現存している家譜だけが歴史上における国富家の家譜の全てでは無い。

従って、失われた家譜の内容を調査しなければ五郎衛門の存在に関する正確な推察は出来ない上、仮に失われた家譜の中に五郎衛門の名が無かったとしても、口伝によってその存在が語られている以上、別の名前を持つ人物が該当する可能性も考慮しなければならない。

現在、国富五郎衛門の経歴に関しては、研究者達によって以下の3説が唱えられている。


1.「五郎衛門は国富家の者である」
 国富家の男子は、それぞれ多種多様な仮名(かみょう)を持っている。例えば、備中国・都宇郡早島村の国富家は、以下のようにそれぞれの代が異なる仮名を使用していた。

初代 源右衛門
第2代 忠右衛門
第3代 源順
第4代 順庵
第5代 九郎祐(享保9 室間野氏)
第6代 小八郎(安永7 室武槍氏)
第7代 藤九郎(文化7 室片岡氏)
第8代 弁之助(文政6 室田中氏)
第9代 万蔵(天保10 室寺山氏)
第10代 鹿之助(明治9 室武槍氏)
第11代 竹次郎(大正13 室武槍氏)
第12代 小八郎(昭和11 室堀井氏)
第13代 運栄(昭和47 室岡氏)
http://gos.but.jp/kunitomi.htm

 三日月藩の国富家において「忠左衛門」の名を継承出来るのは嫡男だけであったが、同じく天心流の継承者であった弥左衛門や弥五左衛門も、国富家の家譜や武芸流派大事典(錦谷雪・山田忠史 編)などに記載がある。
 また、仮名は1人が複数持つことも可能である。例えば、新陰流の流祖である上泉信綱は、武蔵守と伊勢守という2つの仮名を持ち、文献や伝承によってどちらか一方の名のみ明らかにされているケースがほとんどである。国富家の者も、史料に記載されているもの以外の仮名を名乗ることがあったと推察出来、それが史料に記載されないことも不自然ではない。
 故に、国富家の史料に五郎衛門の名が無かったとしても、それは五郎衛門の存在を否定することにはならない。


2.「国富弥五左衛門の弟子が『国富』姓を賜った」
 国富弥五左衛門は天心流兵法の第4世師家であり、国富家の家譜にもその名が記載されている人物である。
 弟子が師の姓を名乗ることは他流にも例がある。伊藤派一刀流(忠也派一刀流)の開祖である伊藤忠也は、小野忠明の実子であるため元々小野姓を名乗っていたが、流祖である伊藤(伊東)一刀斎にちなんだ「伊藤」姓を忠明が忠也に与えたことで、以降は伊藤姓を名乗るようになった。また、忠也の筆頭弟子である亀井平右衛門忠雄も、一刀流三祖の「伊藤」姓を継承した他、忠明の甥にして水戸派一刀流の開祖である忠一も、一刀斎にちなんで「伊藤」姓を継承した。
 他にも西国柳生新影流兵法(有地新影流)の開祖である大野松右衛門家信は、柳生但馬守宗厳(石舟斎)の高弟として柳生新陰流を学び、印可を授かる際に「柳生」姓を賜って名乗るようになった。

古武道 西国 柳生新影流兵法(居合剣法)錬心館・沿革
http://www.saigoku-yagyu.com/ennkaku.html

 以上の各例から、他家の者が弥五左衛門の弟子となって「国富」姓を賜ることも、当時の常識から考えてごく自然である。


3.「五郎衛門は元・石井家の者である」
 これは上記2の説とも関連するもので、石井家の者が弥五左衛門の弟子となり、「国富」姓を賜ったという説である。
 天心流の伝承によると、石井家の祖先である石井新右衛門は徳川幕府の大目付・柳生宗矩配下の組頭となり、役目を解かれて以降も石井家では家伝の武術として天心流を継承し続けたとされている。

天心流兵法の由来
https://tenshinryu.net/?page_id=15

 しかし、既に石井家の家伝であったとしても、天心流をより深く探究するにあたって他の師範家の門下へ入ることはごく自然である。
 それは月之抄において、柳生十兵衛三厳が武者修行のために宗厳(石舟斎)の弟子達や他の新陰流修業者達を訪ね回ったと記述していることからも、当時の武術家が自流を極めるために他の修業者を訪ねることがあったとわかる。
 故に、当時の石井家の者が弥五左衛門に弟子入りし、天心流の印可と共に「国富」姓を賜ったとしても不思議ではない。
 もし五郎衛門が元・石井家の者であれば、弥五左衛門の弟子となって「国富」姓を賜ることで「国富五郎衛門」と名乗ることが可能となり、流祖から数えて天心流の第5世師家となったことにも説明がつく。


上記のように五郎衛門の存在を匂わせる証拠は複数あるため、確固たる存在証明ではないにせよ、少なからず五郎衛門の存在を完全否定するような愚行は歴史学的研究法としても筋が通らないだろう。

また、五郎衛門の存在を否定した月輪堂自体が既にその主張を撤回し、誤りを認めている以上、「五郎衛門は存在していない」と断定的に語ることもまた根拠無き誤情報であり、それを世に広めるべきではない。

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