サイト「宮本武蔵」における誤情報と二天一流
鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会によって運営されている「宮本武蔵」というサイトには、五輪書の解説が公開されている。
この解説は五輪書の各写本なども比較した上で非常に正確な情報を掲載しているが、いくつか誤った情報が記載されている。
例えば、五輪書における二刀上段構えについての解説である。
件のサイトには、水之巻「五方の搆の事」「表、第二の次第の事」「有搆無搆の教の事」の各章において、五輪書に記載のある上段の構えを次のように解説している。
「上段は、後出の「有搆無搆の教の事」に、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とあるから、中段の搆えをそのまま上へ上げたものであろう。しかし、別の搆え方もあるようで、右図のように、太刀を上げるといよりも、太刀を握った右手の拳が顔の脇、耳の傍にくるようにして、太刀を右肩にかついだ形である。太刀先が後を向くのである。左手の刀の方は前へ向ける。――かなり特異な形であるが、これが、現今、しばしば紹介もされている上段の搆えである。しかし、この搆え方の問題は、第一に、これが現行諸派の伝承だとしても、それは十八世紀を遡らないものであること、第二に、またそれに何より、五輪書にはそういう格好にしろとは書いていないこと、第三に、上記の「有搆無搆の教の事」の記事、つまり、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とある記事とも一致しないのである。したがって、五輪書の上段の構えが、太刀を右肩にかついだ格好だとするには、確証がないだけではなく、いろいろ難点もある。」
水之巻「五方の搆の事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g202.html#r207
夢想権之助が宮本武蔵と戦った時期は、武蔵が明石にて町割をしていた元和の初め頃とされており、これは武蔵が尾張に円明流を伝えた寛永元年(1624年)より前であるため、やはり「寺尾求馬助以降の時代に上段構えが改変された」という件のサイトの主張は誤りと言える。
さらに、件のサイトは「中段と下段が「合」〔ごう〕であるのに対し、上段のみ「開」〔かい〕としている。この「合」「開」は、大小二刀の「合」であり「開」なのだが、その「開」の様態については、とくに記載がない。前掲の我々のイラストでは、「開」ではなく、「合」のかたちである。もし「開」であるとすれば、これは右図の如く、左右に「開」のかたちである。これは筑前二天流の伝承である。つまり、寺尾孫之丞信正→柴任美矩→吉田実連と伝えた系統である。」と主張しているが、実際に小倉藩伝二天流の天地構(上段)を見ると、件のサイトが主張するような構えは伝承されていないことがわかる。
小倉藩伝二天流の天地構(秋満紫光先生)
https://muhiryu.jp/about.html
「二刀流口訣条々覺書」における「合」とは、大小の切先を合わせて二刀を構えることで、この原則は円明流や武蔵円明流における中段及び下段構えを見れば、古い伝承通りの作法が現在まで残されていることがわかる。
対する「開」とは大小の切先を離して二刀を構えることで、これも円明流や武蔵円明流の上段構え及び二天流の天地構を見れば、やはり古い伝承通りの作法であり、件のサイトの主張が誤りであるとわかるだろう。
ちなみに、二天一流では全ての構えにおいて大小の切先を離しているので、そもそも「合」「開」という分類自体が存在せず、件のサイトが想像で描いたイラストをもとに「合」か「開」かを論じていること自体が無意味である。
他にも、件のサイトは「『丹治峯均筆記』には、武蔵が塩田浜之丞宅で熊本細川家士と立合ったという場面で、《武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ》とある。つまり、武蔵のこの上段は、広く大きく構えるかたちである。これは、太刀を右肩に担ぐ格好とは、まるきり違う。」と主張しているが、武蔵関連の流派では全ての構えにおいて自らの体を大きく見せるために胸を張るよう教えられるため、これが「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」の真意であるとわかる。
五輪書・水之巻・兵法、身なりの事においても、「身のかゝり、顔ハうつむかず、あをのかず、かたむかず、ひずまず、」「首ハ、うしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、肩より惣身はひとしく覚え、両の肩をさげ、背筋をろくに、尻を出さず、膝より足先まで力を入て、腰のかゞまざるやうに、腹をはり、」「惣而、兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事、肝要也。」と書かれており、いわゆる日常生活における「背筋を伸ばした良い姿勢」を構えの本質としていることから、「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」とはそのことを指しており、件のサイトが主張する両腕を上げることが上段構えであるということではない。
五輪書・水之巻「兵法、身なりの事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g201.html#r203
何故、丹治峯均筆記にわざわざ「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」と書かれているかというと、それはこの時代に伝承されていた各武術流派の構えの特徴に理由がある。
古い歴史を持つ流派では甲冑を着用した戦を想定し、掛かり身や一重身によって可能な限り被弾面積を小さくするような構えをすることで、相対した敵から見て自分の体をコンパクトに畳み、急所を守るという戦術が多用される。
しかし、それとは対象的に武蔵の剣術は自分の体を大きく見せるように構え、相手を威圧することに主眼を置いているため、当時としてはその珍しさから「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」と言及されたのだろう。
そもそも二刀流の上段構えは宮本武蔵関連の流派の専売特許という訳ではなく、柳生新陰流などのように宮本武蔵関連の流派より歴史の古い古流剣術にも存在しており、武蔵が流派を創始する以前から普遍的な構えであったことがわかる。
柳生新陰流の二刀上段構え
件のサイトでは、五輪書・水之巻・五つの表の次第の事。第一の構、中段の解説において、「「顔を突く」「手を打つ」「手を張る」というように、攻撃箇処が敵の胴体ではなく、顔や手であるのは、甲冑で防護されていない部分を狙うということである」「実戦では、甲冑で防護されていない部分を狙う」「これを要するに、五輪書は、道場剣術を教えているのではなく、あくまでも、戦場での実戦の戦闘術を教えるということなのである」と主張しており、これ自体は正しい。
水之巻「五つの表の次第の事。第一の構、中段」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g203.html#r210
しかし、だからこそ体を真正面に向けて両腕を上げる構えは、武術的にも理合いに則しているとは言えず、余計に誤りであるといえる。
何故ならば、体を真正面に向けて両腕を上げてしまうと、甲冑の弱点である両脇の下を敵前に晒してしまうからである。
甲冑を着用した場合、左右の脇の下は小札などで守られておらず、これは両脇の下が関節部であるために可動域を確保する必要性からそのような構造となっている。
故に、日本の古武術各流派において甲冑の着用を想定した兵法では、必ず両脇の下を守るように構え、それと同時に敵と戦う際は肉薄して、相手の脇の下などの鎧の隙間を狙う技が多く存在する。
香取神道流における二刀の構え
山東派に至っては戦前と戦後でも動きが異なり、戦前の内容については稲村伝として東京を中心に現在でも伝承されている。
こうしたことは二天一流に限らず、他流派の古武術でもよくあることであり、それ故に同じ流派で様々な系統が存在することもあるが、例え表面的な動きや形の解釈が違っていても流派共通の正しい術理を継承している点ではどの系統も同じである。
おそらく、鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会は二天一流や円明流、武蔵円明流、二天流などの宮本武蔵関連の武術流派を実際に学んだことがなく、あくまで五輪書の各写本を比較分析して得た情報のみで解説しているが故に、このような誤情報を掲載してしまっていると考えられる。
こうした事例は宮本武蔵関連の流派や五輪書に限らず、他流派やその伝書の研究においてもしばしばあるが、やはり武術史を正しく研究するためにはその流派を実際に学ぶ必要があるということが、こうした事例の数々を見ればよく理解出来るだろう。
実際、件のサイトでは他にも、左脇構えと右脇構えの想定に関する解説が実際の武蔵関連の流派における伝承と逆になってしまっていたりする。
とはいえ、それ以外の点については前述の通り、件のサイトは宮本武蔵や五輪書について非常に正確な分析と解説を掲載している。
その分析と解説をより正確なものとするためにも、鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会は円明流や二天一流、二天流、武蔵円明流などの宮本武蔵関連の流派を是非実際に学んでみてはいかがだろうか。
この解説は五輪書の各写本なども比較した上で非常に正確な情報を掲載しているが、いくつか誤った情報が記載されている。
例えば、五輪書における二刀上段構えについての解説である。
件のサイトには、水之巻「五方の搆の事」「表、第二の次第の事」「有搆無搆の教の事」の各章において、五輪書に記載のある上段の構えを次のように解説している。
「上段は、後出の「有搆無搆の教の事」に、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とあるから、中段の搆えをそのまま上へ上げたものであろう。しかし、別の搆え方もあるようで、右図のように、太刀を上げるといよりも、太刀を握った右手の拳が顔の脇、耳の傍にくるようにして、太刀を右肩にかついだ形である。太刀先が後を向くのである。左手の刀の方は前へ向ける。――かなり特異な形であるが、これが、現今、しばしば紹介もされている上段の搆えである。しかし、この搆え方の問題は、第一に、これが現行諸派の伝承だとしても、それは十八世紀を遡らないものであること、第二に、またそれに何より、五輪書にはそういう格好にしろとは書いていないこと、第三に、上記の「有搆無搆の教の事」の記事、つまり、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とある記事とも一致しないのである。したがって、五輪書の上段の構えが、太刀を右肩にかついだ格好だとするには、確証がないだけではなく、いろいろ難点もある。」
水之巻「五方の搆の事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g202.html#r207
「肥後兵法書によれば、上段の搆えは、太刀を握った右の手を上げて、耳に並べるという感じで、太刀の束柄の先は開かないようにして、手の内は固く握らず弛めず、前せまに(つまり、太刀の束先が開かないように、と同義)搆える。前に向けた左手の刀は差し出すということではなく、その高さは上中下少し変るが、そのいずれかは敵の搆え次第である。ここまでで、五輪書の上段の搆えとまったく違っていることが分る。まず、太刀を握った右手は耳のあたりにある。しかも、太刀の束先が開かないように、前せまに、ということからすると、太刀の切先は後にある。つまりは太刀を右肩上にかついだ格好である。そして、左の小太刀の方は、敵の出方しだいで、高さは上中下何れでもありうるが、これは前に向いている。したがって、左の太刀は前に、右の太刀は右肩の上にあって、後ろを向いているのである。しかし、前にも見たように、五輪書では、「上段も、時にしたがい少し下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる。下段も、折にふれ少し上れば、中段となる」(有搆無搆の教の事)ということであった。とすれば、五輪書の上段は、太刀を右肩にかついだ格好ではありえないのである。だいいち、肥後兵法書の上段の搆えでは、太刀の切先が後ろに向いているのである。これでは、「上段も、時にしたがい、少し下る感じであれば、中段となる」という具合にはいかない。このように、肥後兵法書のいう上段(儀談の搆え)は、五輪書の上段とは似ても似つかない形になっている。そこで、以下どういう記述が続くか――。まず、太刀を打ち出すに、その遅い速い、浅い深い、軽い重いの違いがあるが、何れも敵の打ち方に応じてのこと。表としては、敵の手を打つ。太刀筋を下へ打つことはない。向うへ打つのである、と。したがって、こういうことだから、五輪書のように、上から打って、また下からすくい上げて打つ、というわけではない。その代りに、喝咄〔かっとつ〕の話が出てくる。されば、太刀筋を喝咄する(突き上げ、打ち下ろす)とき、太刀の刃を立て、敵の打ち出してくるその手を突く。――これも五輪書にはない話であり、五輪書では先の通り、下からすくい上げて打つ、ということである。さらに下から打ち上げるに、敵の太刀に当っても当らなくても同じことである。こちらの手先が狂わぬように、早く打つことが第一である。もし打ち合って喝咄が連続する太刀筋であれば、「付ける」こともある。敵合いが近いと、うまくいかないから、受けて取るということ、これを吟味すべし。――というわけで、最後には、「受けて取る」という話になって、上段の搆えから打つという話の筋は、脱線して、別の方向へ行ってしまっている。こうしてみると、とくに問題なのは、《右の手を耳にくらぶると云心、太刀の柄先開く心なく》、つまり、太刀を握る右手は耳の脇において、太刀の柄先は開かないようにして、とあるところである。ようするに、上段の搆えは右肩上に太刀をかついだ格好であり、すでに肥後兵法書の段階で形が違ってしまっているのである。これも、武蔵死後、寺尾求馬助系統で発生した変異であろう。その時期はいつの段階か不明だが、寺尾求馬助よりも後の世代のことであろう。とすれば、肥後兵法書の記事が書かれた時点も寺尾求馬助以後のこととみえる。
このあたり他流にも、武蔵流の上段を、肩にかつぐ形とみた記録がある。時中流は二刀流で、青木休心を祖とする広義の武蔵道統の一派だが、武蔵晩年の肥後系流派を他派と見ている。その「諸流極意秘傳之巻」なる伝書に、「神明武蔵」の五箇位として、五方の搆えを記している。そのうち、現存する最も古い伝書(享保十六年)によれば、「神明武蔵」の五箇位のうち、上段に相当するのは、第五番目にあって、《小太刀目通リニサシ出、大太刀右ノ肩ノ上ニモチ、如前仕カケ、小太刀サゲナガラ、大太刀上ヨリ延切ニ打ナリ。早切ト云テ、向ノ頭胸下リ兩手マデ切込勝也》としている。ということは、すくなくとも享保年間までに、「神明武蔵」の流派の上段は、大太刀を右の肩の上にもつという形だと知られていたのである。したがって、この上段の形は、寺尾求馬助系統で発生したとしても、それは享保年間以前、ということである。寺尾求馬助もしくはその子の世代までには、この形の形成があったらしい。ただし、上段を「儀談」の搆えとするような記事は、時中流の伝書にはないから、こうした形の名称は、享保年間以後の発生かもしれない。ともあれ、右肩上に太刀をかついだ格好の上段の搆えは、後世の変形である。現在、武蔵の二刀流を伝承すると称する諸流があるが、その中には、太刀を肩にかついだ恰好の形をもって上段の搆えとするものがある。それはしかし、武蔵ではなく、寺尾求馬助の系統で生じた変形であって、五輪書の記述内容とは無縁のものである。したがって、そのような搆えは、厳密に謂えば、五輪書の流儀ではないのである。むろん、上段の搆えについては、こうした肥後系の伝承とはちがう他の形もあったようである。
たとえば、『丹治峯均筆記』には、武蔵が塩田浜之丞宅で熊本細川家士と立合ったという場面で、《武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ》とある。つまり、武蔵のこの上段は、広く大きく構えるかたちである。これは、太刀を右肩に担ぐ格好とは、まるきり違う。
あるいは、その筑前二天流の末流、後世の越後の口伝書(二刀流口訣条々覺書)では、
《表五條 各面授口訣
其一 中段合
其二 上段開
其三 下段合
其四 大出左挟之、小横翳之
其五 小横翳之、大披後曳之
右何れも、調子拍子ゆる/\と遣ひ習ふべし》
とあって、中段は合、上段は開、下段は合、と記す。中段と下段が「合」〔ごう〕であるのに対し、上段のみ「開」〔かい〕としている。この「合」「開」は、大小二刀の「合」であり「開」なのだが、その「開」の様態については、とくに記載がない。前掲の我々のイラストでは、「開」ではなく、「合」のかたちである。もし「開」であるとすれば、これは右図の如く、左右に「開」のかたちである。これは筑前二天流の伝承である。つまり、寺尾孫之丞信正→柴任美矩→吉田実連と伝えた系統である。このように、寺尾孫之丞の系統では、肥後兵法書が記すような、太刀を右肩上にかつぐ上段の搆えは存在しない。これを確認しておくべきである。ともあれ、この上段の構えについては、武蔵道統を称する現存諸派の伝承もあるが、武蔵の時代のかたちとなると、確証がない。そういう留保条件を付して、我々の上段の解釈にしても、五輪書の記述に忠実に沿えばこうなるということであり、さしあたり想定しうる形としておくのであって、必ずしも「上段、開」の形を排除するものではない。以上のように、この上段の搆えには問題が残る。ただし、肥後兵法書の右肩上にかつぐ上段の搆えは、寺尾孫之丞の系統にはない形である。むろんそのことから知れるのは、この形が肥後の求馬助系統で発生した変形だということである。したがって、右肩上にかつぐ上段の形を示す流儀は、五輪書の武蔵ではなく、寺尾求馬助以後の段階から派生した新儀である。これを武蔵の上段の搆えとするのは、冗談というべきであろう。」
水之巻「表、第二の次第の事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g203.html#r210
上記の解説を要約すると、「現在の宮本武蔵関連の流派における二刀上段構えは誤りであり、中段の搆えをそのまま上へ上げたものが正しい」「現在の上段構えは、五輪書に記載のある本来の構えが寺尾求馬助以降の時代に改変されて作られたものである」という主張となり、宮本武蔵関連の流派の伝承と照らし合わせると誤った情報であることがわかる。
まず、「現在の上段構えは、五輪書に記載のある本来の構えが寺尾求馬助以降の時代に改変されて作られたものである」という主張についてだが、宮本武蔵に関連する流派としては二天一流よりも古い円明流や武蔵円明流の頃から既に現在の上段構えは存在しており、円明流も武蔵円明流も系統上は寺尾求馬助と一切関わりの無い流派である。
円明流の二刀上段構え(パッケージ左側の写真、赤羽根龍夫先生)
https://www.amazon.co.jp/DVD-%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%88%80%E6%B5%81%E5%85%A5%E9%96%80%E2%80%95%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BF%85%E5%8B%9D%E3%81%AE%E6%A5%B5%E6%84%8F-%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%86%86%E6%98%8E%E6%B5%81%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%81%B6-%E8%B5%A4%E7%BE%BD%E6%A0%B9%E9%BE%8D%E5%A4%AB/dp/4814201699
円明流の二刀上段構え
このあたり他流にも、武蔵流の上段を、肩にかつぐ形とみた記録がある。時中流は二刀流で、青木休心を祖とする広義の武蔵道統の一派だが、武蔵晩年の肥後系流派を他派と見ている。その「諸流極意秘傳之巻」なる伝書に、「神明武蔵」の五箇位として、五方の搆えを記している。そのうち、現存する最も古い伝書(享保十六年)によれば、「神明武蔵」の五箇位のうち、上段に相当するのは、第五番目にあって、《小太刀目通リニサシ出、大太刀右ノ肩ノ上ニモチ、如前仕カケ、小太刀サゲナガラ、大太刀上ヨリ延切ニ打ナリ。早切ト云テ、向ノ頭胸下リ兩手マデ切込勝也》としている。ということは、すくなくとも享保年間までに、「神明武蔵」の流派の上段は、大太刀を右の肩の上にもつという形だと知られていたのである。したがって、この上段の形は、寺尾求馬助系統で発生したとしても、それは享保年間以前、ということである。寺尾求馬助もしくはその子の世代までには、この形の形成があったらしい。ただし、上段を「儀談」の搆えとするような記事は、時中流の伝書にはないから、こうした形の名称は、享保年間以後の発生かもしれない。ともあれ、右肩上に太刀をかついだ格好の上段の搆えは、後世の変形である。現在、武蔵の二刀流を伝承すると称する諸流があるが、その中には、太刀を肩にかついだ恰好の形をもって上段の搆えとするものがある。それはしかし、武蔵ではなく、寺尾求馬助の系統で生じた変形であって、五輪書の記述内容とは無縁のものである。したがって、そのような搆えは、厳密に謂えば、五輪書の流儀ではないのである。むろん、上段の搆えについては、こうした肥後系の伝承とはちがう他の形もあったようである。
たとえば、『丹治峯均筆記』には、武蔵が塩田浜之丞宅で熊本細川家士と立合ったという場面で、《武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ》とある。つまり、武蔵のこの上段は、広く大きく構えるかたちである。これは、太刀を右肩に担ぐ格好とは、まるきり違う。
あるいは、その筑前二天流の末流、後世の越後の口伝書(二刀流口訣条々覺書)では、
《表五條 各面授口訣
其一 中段合
其二 上段開
其三 下段合
其四 大出左挟之、小横翳之
其五 小横翳之、大披後曳之
右何れも、調子拍子ゆる/\と遣ひ習ふべし》
とあって、中段は合、上段は開、下段は合、と記す。中段と下段が「合」〔ごう〕であるのに対し、上段のみ「開」〔かい〕としている。この「合」「開」は、大小二刀の「合」であり「開」なのだが、その「開」の様態については、とくに記載がない。前掲の我々のイラストでは、「開」ではなく、「合」のかたちである。もし「開」であるとすれば、これは右図の如く、左右に「開」のかたちである。これは筑前二天流の伝承である。つまり、寺尾孫之丞信正→柴任美矩→吉田実連と伝えた系統である。このように、寺尾孫之丞の系統では、肥後兵法書が記すような、太刀を右肩上にかつぐ上段の搆えは存在しない。これを確認しておくべきである。ともあれ、この上段の構えについては、武蔵道統を称する現存諸派の伝承もあるが、武蔵の時代のかたちとなると、確証がない。そういう留保条件を付して、我々の上段の解釈にしても、五輪書の記述に忠実に沿えばこうなるということであり、さしあたり想定しうる形としておくのであって、必ずしも「上段、開」の形を排除するものではない。以上のように、この上段の搆えには問題が残る。ただし、肥後兵法書の右肩上にかつぐ上段の搆えは、寺尾孫之丞の系統にはない形である。むろんそのことから知れるのは、この形が肥後の求馬助系統で発生した変形だということである。したがって、右肩上にかつぐ上段の形を示す流儀は、五輪書の武蔵ではなく、寺尾求馬助以後の段階から派生した新儀である。これを武蔵の上段の搆えとするのは、冗談というべきであろう。」
水之巻「表、第二の次第の事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g203.html#r210
上記の解説を要約すると、「現在の宮本武蔵関連の流派における二刀上段構えは誤りであり、中段の搆えをそのまま上へ上げたものが正しい」「現在の上段構えは、五輪書に記載のある本来の構えが寺尾求馬助以降の時代に改変されて作られたものである」という主張となり、宮本武蔵関連の流派の伝承と照らし合わせると誤った情報であることがわかる。
まず、「現在の上段構えは、五輪書に記載のある本来の構えが寺尾求馬助以降の時代に改変されて作られたものである」という主張についてだが、宮本武蔵に関連する流派としては二天一流よりも古い円明流や武蔵円明流の頃から既に現在の上段構えは存在しており、円明流も武蔵円明流も系統上は寺尾求馬助と一切関わりの無い流派である。
円明流の二刀上段構え(パッケージ左側の写真、赤羽根龍夫先生)
https://www.amazon.co.jp/DVD-%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%88%80%E6%B5%81%E5%85%A5%E9%96%80%E2%80%95%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BF%85%E5%8B%9D%E3%81%AE%E6%A5%B5%E6%84%8F-%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%86%86%E6%98%8E%E6%B5%81%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%81%B6-%E8%B5%A4%E7%BE%BD%E6%A0%B9%E9%BE%8D%E5%A4%AB/dp/4814201699
円明流の二刀上段構え
寺尾求馬助は武蔵の晩年の高弟であり、師事したのは武蔵が細川家の客分として熊本に迎え入れられた寛永17年(1640年)以降である。
これに対し、武蔵が尾張に円明流を伝えたのは寛永元年(1624年)から、武蔵円明流の流祖である宮本武蔵政名が宮本武蔵玄信から円明流を伝授されて武蔵円明流を創始したのは慶長15年(1610年)であるため、「現在の上段構えは、五輪書に記載のある本来の構えが寺尾求馬助以降の時代に改変されて作られたものである」という主張が明らかに誤りであることがわかる。
武蔵円明流会「武蔵円明流の歴史 概要」
https://www.ne.jp/asahi/system/color/
また、神道夢想流の流祖である夢想権之助は宮本武蔵と戦った逸話があり、実際に神道夢想流の二刀流には武蔵が円明流時代から使用する大小の切っ先を重ねた中段構えの他、円明流や二天一流と同様の上段構えが伝わっている。
神道夢想流の二刀上段構え
これに対し、武蔵が尾張に円明流を伝えたのは寛永元年(1624年)から、武蔵円明流の流祖である宮本武蔵政名が宮本武蔵玄信から円明流を伝授されて武蔵円明流を創始したのは慶長15年(1610年)であるため、「現在の上段構えは、五輪書に記載のある本来の構えが寺尾求馬助以降の時代に改変されて作られたものである」という主張が明らかに誤りであることがわかる。
武蔵円明流会「武蔵円明流の歴史 概要」
https://www.ne.jp/asahi/system/color/
また、神道夢想流の流祖である夢想権之助は宮本武蔵と戦った逸話があり、実際に神道夢想流の二刀流には武蔵が円明流時代から使用する大小の切っ先を重ねた中段構えの他、円明流や二天一流と同様の上段構えが伝わっている。
神道夢想流の二刀上段構え
夢想権之助が宮本武蔵と戦った時期は、武蔵が明石にて町割をしていた元和の初め頃とされており、これは武蔵が尾張に円明流を伝えた寛永元年(1624年)より前であるため、やはり「寺尾求馬助以降の時代に上段構えが改変された」という件のサイトの主張は誤りと言える。
さらに、件のサイトは「中段と下段が「合」〔ごう〕であるのに対し、上段のみ「開」〔かい〕としている。この「合」「開」は、大小二刀の「合」であり「開」なのだが、その「開」の様態については、とくに記載がない。前掲の我々のイラストでは、「開」ではなく、「合」のかたちである。もし「開」であるとすれば、これは右図の如く、左右に「開」のかたちである。これは筑前二天流の伝承である。つまり、寺尾孫之丞信正→柴任美矩→吉田実連と伝えた系統である。」と主張しているが、実際に小倉藩伝二天流の天地構(上段)を見ると、件のサイトが主張するような構えは伝承されていないことがわかる。
小倉藩伝二天流の天地構(秋満紫光先生)
https://muhiryu.jp/about.html
「二刀流口訣条々覺書」における「合」とは、大小の切先を合わせて二刀を構えることで、この原則は円明流や武蔵円明流における中段及び下段構えを見れば、古い伝承通りの作法が現在まで残されていることがわかる。
対する「開」とは大小の切先を離して二刀を構えることで、これも円明流や武蔵円明流の上段構え及び二天流の天地構を見れば、やはり古い伝承通りの作法であり、件のサイトの主張が誤りであるとわかるだろう。
ちなみに、二天一流では全ての構えにおいて大小の切先を離しているので、そもそも「合」「開」という分類自体が存在せず、件のサイトが想像で描いたイラストをもとに「合」か「開」かを論じていること自体が無意味である。
他にも、件のサイトは「『丹治峯均筆記』には、武蔵が塩田浜之丞宅で熊本細川家士と立合ったという場面で、《武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ》とある。つまり、武蔵のこの上段は、広く大きく構えるかたちである。これは、太刀を右肩に担ぐ格好とは、まるきり違う。」と主張しているが、武蔵関連の流派では全ての構えにおいて自らの体を大きく見せるために胸を張るよう教えられるため、これが「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」の真意であるとわかる。
五輪書・水之巻・兵法、身なりの事においても、「身のかゝり、顔ハうつむかず、あをのかず、かたむかず、ひずまず、」「首ハ、うしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、肩より惣身はひとしく覚え、両の肩をさげ、背筋をろくに、尻を出さず、膝より足先まで力を入て、腰のかゞまざるやうに、腹をはり、」「惣而、兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事、肝要也。」と書かれており、いわゆる日常生活における「背筋を伸ばした良い姿勢」を構えの本質としていることから、「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」とはそのことを指しており、件のサイトが主張する両腕を上げることが上段構えであるということではない。
五輪書・水之巻「兵法、身なりの事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g201.html#r203
何故、丹治峯均筆記にわざわざ「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」と書かれているかというと、それはこの時代に伝承されていた各武術流派の構えの特徴に理由がある。
古い歴史を持つ流派では甲冑を着用した戦を想定し、掛かり身や一重身によって可能な限り被弾面積を小さくするような構えをすることで、相対した敵から見て自分の体をコンパクトに畳み、急所を守るという戦術が多用される。
しかし、それとは対象的に武蔵の剣術は自分の体を大きく見せるように構え、相手を威圧することに主眼を置いているため、当時としてはその珍しさから「武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ」と言及されたのだろう。
そもそも二刀流の上段構えは宮本武蔵関連の流派の専売特許という訳ではなく、柳生新陰流などのように宮本武蔵関連の流派より歴史の古い古流剣術にも存在しており、武蔵が流派を創始する以前から普遍的な構えであったことがわかる。
柳生新陰流の二刀上段構え
件のサイトでは、五輪書・水之巻・五つの表の次第の事。第一の構、中段の解説において、「「顔を突く」「手を打つ」「手を張る」というように、攻撃箇処が敵の胴体ではなく、顔や手であるのは、甲冑で防護されていない部分を狙うということである」「実戦では、甲冑で防護されていない部分を狙う」「これを要するに、五輪書は、道場剣術を教えているのではなく、あくまでも、戦場での実戦の戦闘術を教えるということなのである」と主張しており、これ自体は正しい。
水之巻「五つの表の次第の事。第一の構、中段」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g203.html#r210
しかし、だからこそ体を真正面に向けて両腕を上げる構えは、武術的にも理合いに則しているとは言えず、余計に誤りであるといえる。
何故ならば、体を真正面に向けて両腕を上げてしまうと、甲冑の弱点である両脇の下を敵前に晒してしまうからである。
甲冑を着用した場合、左右の脇の下は小札などで守られておらず、これは両脇の下が関節部であるために可動域を確保する必要性からそのような構造となっている。
故に、日本の古武術各流派において甲冑の着用を想定した兵法では、必ず両脇の下を守るように構え、それと同時に敵と戦う際は肉薄して、相手の脇の下などの鎧の隙間を狙う技が多く存在する。
香取神道流における二刀の構え
https://www.youtube.com/watch?v=VbA6X7ajAtI
上記動画の通り、敵に脇の下を晒さない二刀の構えは他流派においても見られる共通点であり、これは日本の古武術、特に介者剣術などの甲冑兵法における基本とも言える。
現在、円明流や武蔵円明流、二天流、二天一流において伝承されている二刀の上段構えも、両脇の下を守るように構えているが、これもやはり件のサイトの解説通り甲冑を着用した戦闘も想定しているが故であろう。
宮本武蔵が円明流の後、二天一流の前に創始した小倉藩伝二天流においても、天地構(上段)は敵に対して体を真正面に向けるのではなく半身で構えることで、右脇の下を敵前に晒さない工夫が施されている。
だからこそ、我々のように平和な時代に二天一流を学んでいる現代人よりも遥かに実戦経験豊富な宮本武蔵その人が、甲冑の着用を想定した上段構えにおいて体を真正面に向けたまま両腕を上げて両脇の下を敵前に晒すなどという、武術的に不合理な教えを遺すはずがないのである。
鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会がこのような誤った解説を掲載してしまった理由は、五輪書・水之巻・有搆無搆の教の事における「上段も、時に随ひ、少さぐる心なれバ、中段となり、中段も、利により少上れば、上段となる。下段も、折にふれ少上れバ、中段となる。両脇の搆も、位により、少し中へ出せバ、中段、下段ともなる心也。」という文言に根拠がある。
水之巻「有搆無搆の教の事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g204.html#r214
確かに、中段構えから両腕を同時に下ろせば下段構えになるが、その条件を上段に構える際にも当てはめてしまったことが誤りの原因であるといえる。
そもそも、宮本武蔵は五輪書において「両腕を同時に上げて上段、もしくは下ろして下段に構える」とは一言も述べていないのである。
水之巻・有搆無搆の教の事における「利により少上れば」とは、武術的に言えば「体内の気を上へ流す」という程度の意味であり、そこには「両腕を同時に上げる」という意味は含まれていない。
二天一流において五方の構の形稽古をする際は、気の流れを「利により少し上げる」ことで上段構えとなることが重要であり、腕が上がっているかどうかや切先がどこを向くかという表面的な動きだけに囚われているのでは、技が形骸化してしまう。
実際、同章では「上段も、時に随ひ、少さぐる“心”なれバ、中段となり、」と書かれており、単に腕を上げ下げするのではなく、「心」すなわち意思によって気の流れを自在に操作して構えることが重要であると示されている。
また、五輪書・水之巻・五方の搆の事には「此道の大事にいはく、搆の極は中段と心得べし。中段、かまへの本意也。兵法大にして見よ、中段は大将の座也。大将につぎ、跡四段の搆也」と書かれており、あくまで中段構えとその術理を基準として上段・下段・左脇・右脇の4つの構えとその術理も成り立っていることが示されている。
上記動画の通り、敵に脇の下を晒さない二刀の構えは他流派においても見られる共通点であり、これは日本の古武術、特に介者剣術などの甲冑兵法における基本とも言える。
現在、円明流や武蔵円明流、二天流、二天一流において伝承されている二刀の上段構えも、両脇の下を守るように構えているが、これもやはり件のサイトの解説通り甲冑を着用した戦闘も想定しているが故であろう。
宮本武蔵が円明流の後、二天一流の前に創始した小倉藩伝二天流においても、天地構(上段)は敵に対して体を真正面に向けるのではなく半身で構えることで、右脇の下を敵前に晒さない工夫が施されている。
だからこそ、我々のように平和な時代に二天一流を学んでいる現代人よりも遥かに実戦経験豊富な宮本武蔵その人が、甲冑の着用を想定した上段構えにおいて体を真正面に向けたまま両腕を上げて両脇の下を敵前に晒すなどという、武術的に不合理な教えを遺すはずがないのである。
鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会がこのような誤った解説を掲載してしまった理由は、五輪書・水之巻・有搆無搆の教の事における「上段も、時に随ひ、少さぐる心なれバ、中段となり、中段も、利により少上れば、上段となる。下段も、折にふれ少上れバ、中段となる。両脇の搆も、位により、少し中へ出せバ、中段、下段ともなる心也。」という文言に根拠がある。
水之巻「有搆無搆の教の事」
https://musasi.siritai.net/themusasi2/gorin/g204.html#r214
確かに、中段構えから両腕を同時に下ろせば下段構えになるが、その条件を上段に構える際にも当てはめてしまったことが誤りの原因であるといえる。
そもそも、宮本武蔵は五輪書において「両腕を同時に上げて上段、もしくは下ろして下段に構える」とは一言も述べていないのである。
水之巻・有搆無搆の教の事における「利により少上れば」とは、武術的に言えば「体内の気を上へ流す」という程度の意味であり、そこには「両腕を同時に上げる」という意味は含まれていない。
二天一流において五方の構の形稽古をする際は、気の流れを「利により少し上げる」ことで上段構えとなることが重要であり、腕が上がっているかどうかや切先がどこを向くかという表面的な動きだけに囚われているのでは、技が形骸化してしまう。
実際、同章では「上段も、時に随ひ、少さぐる“心”なれバ、中段となり、」と書かれており、単に腕を上げ下げするのではなく、「心」すなわち意思によって気の流れを自在に操作して構えることが重要であると示されている。
また、五輪書・水之巻・五方の搆の事には「此道の大事にいはく、搆の極は中段と心得べし。中段、かまへの本意也。兵法大にして見よ、中段は大将の座也。大将につぎ、跡四段の搆也」と書かれており、あくまで中段構えとその術理を基準として上段・下段・左脇・右脇の4つの構えとその術理も成り立っていることが示されている。
水之巻「五方の搆の事」
現在まで伝承されている二天一流の形に動きを実際に見てみると、山東派や稲村伝では一度二刀を中段に構えてから上段に構え直し、野田派についても小刀を中段に構えてから大刀を上段に構えているため、どの系統でも二天一流の上段構えは五輪書の記述通り中段構えを基準とした術理を稽古していることがわかる。
従って、「五輪書の上段は、太刀を右肩にかついだ格好ではありえないのである。だいいち、肥後兵法書の上段の搆えでは、太刀の切先が後ろに向いているのである。これでは、「上段も、時にしたがい、少し下る感じであれば、中段となる」という具合にはいかない」という件のサイトの主張は、鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会が二天一流の技を外面的な動きのみで判断し、流派の形に含まれている正しい術理を理解していない証拠と言える。
件のサイトは「肥後兵法書のいう上段(儀談の搆え)は、五輪書の上段とは似ても似つかない形になっている。そこで、以下どういう記述が続くか――。まず、太刀を打ち出すに、その遅い速い、浅い深い、軽い重いの違いがあるが、何れも敵の打ち方に応じてのこと。表としては、敵の手を打つ。太刀筋を下へ打つことはない。向うへ打つのである、と。したがって、こういうことだから、五輪書のように、上から打って、また下からすくい上げて打つ、というわけではない」とも主張しているが、これも鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会が二天一流の形に込められている正しい術理を理解していない証拠である。
確かに二天一流では「切先返し」という身体操作によって、上から打つことも下からすくい上げて打つことも自由自在であるが、そればかりが二天一流の技ではない。
肥後兵法書が「表としては」と言及している通り、二天一流の形には多くの解釈が存在し、その解釈の違いによって我々修業者は多様な技を習得していく。
従って、同じ形であっても解釈が違えば上から打つことも下からすくい上げて打つこともあり、肥後兵法書に記載されている通り「敵の手を打つ」ことも「向うへ打つ」こともある。
五輪書に記載されている「上から打って、また下からすくい上げて打つ」という文言も、単に上から斬り下ろす、あるいは下から斬り上げるということだけを意味しているのではなく、切先返しによって一度刀を振り上げてから斬り下ろしたりといった特殊な技法も内包しており、こうした切先返しによる自由自在な技は実際に二天一流を学ばなければ理解出来ないのである。
肥後兵法書が「太刀を打ち出すに、その遅い速い、浅い深い、軽い重いの違いがあるが、何れも敵の打ち方に応じてのこと」と言及している通り、二天一流が口伝によって継承している「形の解釈・応用」には多くの技が含まれており、その技や肥後兵法書の内容は確かに五輪書の内容と一致している。
問題は、肥後兵法書が「口伝書」として流派の技に関してある程度詳細に書かれていることに対し、五輪書は技に関する詳細な内容が隠され、抽象的なことしか書かれていない点にある。
それ故、五輪書は二天一流を実際に修業した経験のある者にしか分からない内容となっており、とても門外漢に理解出来るものではない。
一方で、肥後兵法書は本来ならば師から弟子へと口伝えで継承しなければならない重要な情報を「口伝書」としてまとめたものであるため、その内容は詳細かつ二天一流の実際の伝承と照らし合わせても正確で、門外漢が読んでも理解しやすい内容と言える。
言うなれば、肥後兵法書は五輪書の解説書であり、抽象的な内容で占められている五輪書を正しく読み解くための重要な手掛かりである。
その他、件のサイトは二天流の天地構(上段構え)について、「肥後兵法書の右肩上にかつぐ上段の搆えは、寺尾孫之丞の系統にはない形である。むろんそのことから知れるのは、この形が肥後の求馬助系統で発生した変形だということである」と主張しているが、これも誤った情報である。
正しくは「円明流や二天一流の上段構えが、二天流の天地構(上段構え)に変化した」のであり、件のサイトが主張するように「二天流の天地構(上段構え)が二天一流の上段構えに変化した」のではない。
上記の通り、二天一流の上段構えは円明流や武蔵円明流の時代から存在しているが、二天流の天地構(上段構え)だけが変化した理由は武蔵の指導方針に根拠がある。
というのも、武蔵は弟子1人に対する個人教授を重視し、各人の適正に合わせて教授する技の内容を変えるという非常に面倒見の良い有能な指導者であったため、同じ時期に武蔵から兵法を学んでいても技が微妙に異なることはよくあった。
実際、下記動画の二天一流各系統の演武を見ればわかる通り、同じ五方の形や一刀の形(一刀勢法)であっても動きが微妙に異なる。
山東派二天一流
件のサイトは「肥後兵法書のいう上段(儀談の搆え)は、五輪書の上段とは似ても似つかない形になっている。そこで、以下どういう記述が続くか――。まず、太刀を打ち出すに、その遅い速い、浅い深い、軽い重いの違いがあるが、何れも敵の打ち方に応じてのこと。表としては、敵の手を打つ。太刀筋を下へ打つことはない。向うへ打つのである、と。したがって、こういうことだから、五輪書のように、上から打って、また下からすくい上げて打つ、というわけではない」とも主張しているが、これも鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会が二天一流の形に込められている正しい術理を理解していない証拠である。
確かに二天一流では「切先返し」という身体操作によって、上から打つことも下からすくい上げて打つことも自由自在であるが、そればかりが二天一流の技ではない。
肥後兵法書が「表としては」と言及している通り、二天一流の形には多くの解釈が存在し、その解釈の違いによって我々修業者は多様な技を習得していく。
従って、同じ形であっても解釈が違えば上から打つことも下からすくい上げて打つこともあり、肥後兵法書に記載されている通り「敵の手を打つ」ことも「向うへ打つ」こともある。
五輪書に記載されている「上から打って、また下からすくい上げて打つ」という文言も、単に上から斬り下ろす、あるいは下から斬り上げるということだけを意味しているのではなく、切先返しによって一度刀を振り上げてから斬り下ろしたりといった特殊な技法も内包しており、こうした切先返しによる自由自在な技は実際に二天一流を学ばなければ理解出来ないのである。
肥後兵法書が「太刀を打ち出すに、その遅い速い、浅い深い、軽い重いの違いがあるが、何れも敵の打ち方に応じてのこと」と言及している通り、二天一流が口伝によって継承している「形の解釈・応用」には多くの技が含まれており、その技や肥後兵法書の内容は確かに五輪書の内容と一致している。
問題は、肥後兵法書が「口伝書」として流派の技に関してある程度詳細に書かれていることに対し、五輪書は技に関する詳細な内容が隠され、抽象的なことしか書かれていない点にある。
それ故、五輪書は二天一流を実際に修業した経験のある者にしか分からない内容となっており、とても門外漢に理解出来るものではない。
一方で、肥後兵法書は本来ならば師から弟子へと口伝えで継承しなければならない重要な情報を「口伝書」としてまとめたものであるため、その内容は詳細かつ二天一流の実際の伝承と照らし合わせても正確で、門外漢が読んでも理解しやすい内容と言える。
言うなれば、肥後兵法書は五輪書の解説書であり、抽象的な内容で占められている五輪書を正しく読み解くための重要な手掛かりである。
その他、件のサイトは二天流の天地構(上段構え)について、「肥後兵法書の右肩上にかつぐ上段の搆えは、寺尾孫之丞の系統にはない形である。むろんそのことから知れるのは、この形が肥後の求馬助系統で発生した変形だということである」と主張しているが、これも誤った情報である。
正しくは「円明流や二天一流の上段構えが、二天流の天地構(上段構え)に変化した」のであり、件のサイトが主張するように「二天流の天地構(上段構え)が二天一流の上段構えに変化した」のではない。
上記の通り、二天一流の上段構えは円明流や武蔵円明流の時代から存在しているが、二天流の天地構(上段構え)だけが変化した理由は武蔵の指導方針に根拠がある。
というのも、武蔵は弟子1人に対する個人教授を重視し、各人の適正に合わせて教授する技の内容を変えるという非常に面倒見の良い有能な指導者であったため、同じ時期に武蔵から兵法を学んでいても技が微妙に異なることはよくあった。
実際、下記動画の二天一流各系統の演武を見ればわかる通り、同じ五方の形や一刀の形(一刀勢法)であっても動きが微妙に異なる。
山東派二天一流
山東派に至っては戦前と戦後でも動きが異なり、戦前の内容については稲村伝として東京を中心に現在でも伝承されている。
こうしたことは二天一流に限らず、他流派の古武術でもよくあることであり、それ故に同じ流派で様々な系統が存在することもあるが、例え表面的な動きや形の解釈が違っていても流派共通の正しい術理を継承している点ではどの系統も同じである。
おそらく、鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会は二天一流や円明流、武蔵円明流、二天流などの宮本武蔵関連の武術流派を実際に学んだことがなく、あくまで五輪書の各写本を比較分析して得た情報のみで解説しているが故に、このような誤情報を掲載してしまっていると考えられる。
こうした事例は宮本武蔵関連の流派や五輪書に限らず、他流派やその伝書の研究においてもしばしばあるが、やはり武術史を正しく研究するためにはその流派を実際に学ぶ必要があるということが、こうした事例の数々を見ればよく理解出来るだろう。
実際、件のサイトでは他にも、左脇構えと右脇構えの想定に関する解説が実際の武蔵関連の流派における伝承と逆になってしまっていたりする。
とはいえ、それ以外の点については前述の通り、件のサイトは宮本武蔵や五輪書について非常に正確な分析と解説を掲載している。
その分析と解説をより正確なものとするためにも、鈴木幸治氏と播磨武蔵研究会は円明流や二天一流、二天流、武蔵円明流などの宮本武蔵関連の流派を是非実際に学んでみてはいかがだろうか。
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