「士林団」と天心流の伝承

天心流兵法(江戸伝天心流)の伝承によると、「士林団」とは「江戸幕府(徳川幕府)における大目付配下の家臣団の内、諜報・伝令・暗殺を任務とする者達」である。

天心流の伝承では、「士林団」の他にも「士林組」及び「光願」という呼称も使われており、全て天心流が「江戸幕府(徳川幕府)における大目付配下の家臣の内、諜報・伝令・暗殺を任務とする者達」を指す際に使用する名称である。

これら3種の名称は江戸時代の史料に見られないため、大目付配下の家臣団の一部を指すにあたって後世に名付けられた通称であると考えられる。

歴史学において、本来正式名称が存在しない事物に便宜上の呼称を名付け、歴史用語として使用することは珍しいことではない。

例えば、江戸時代に大名が支配する領域を指す「藩」という歴史用語は、当時の江戸幕府における公的な制度名ではなかった。

「藩」という呼称は、新井白石の「藩翰譜」や「徳川実紀」など元禄年間以降のごく一部の史料に散見される程度であり、公称として一般に広く使用されるようになったのは明治時代以降のことである。

また、織田信長の正室は「濃姫」という呼称で一般に知られているが、この「濃姫」という呼称も戦国時代~安土桃山時代当時の正式な本名ではない。

濃姫の正式な本名は現在でも不明であり、文献によって「帰蝶」や「胡蝶」などの様々な便宜上の名称が使用されている。

これらの名前は全て後世に付けられたものであり、濃姫の正式な本名はどの文献にも存在していない。

他にも、戊辰戦争における倒幕派の官軍が、後に歴史用語として「新政府軍」と称されたことも同様の事例である。

こうした歴史用語の事例を鑑みると、「士林団」という名前も歴代の天心流継承者やその関係者によって後付けされたものであると考えられる。

ちなみに、「士林」という言葉自体は江戸時代から使われている一般名詞であり、延享4年(1747年)に作成された尾張藩士達の系図資料「士林泝洄」にもその言葉が使われている通り、当時の日本では常識的に使われていた言葉である。

既に一部の武術家や歴史研究家から指摘がある通り、「士林団」、「士林組」及び「光願」という組織名は江戸時代の史料に記載が見られず、当時の江戸幕府で公式に使われていた正式名称ではないと考えられる。

しかし、実際に歴代の天心流継承者が「江戸幕府(徳川幕府)における大目付配下の家臣団の内、諜報・伝令・暗殺を任務とする者達」について言及するにあたり、固有の名称が無いことは不都合が多い。

とはいえ、「大目付配下の家臣団」という表現では、大目付の身辺の世話を担当する家臣や書記などの士林団以外の者たちまで含めてしまい、ましてや「彼ら」のような一般代名詞では、二つ以上の集団について言及する場合にどれを指しているのかわからなくなってしまうこともある。

故に、「江戸幕府(徳川幕府)における大目付配下の家臣の内、諜報・伝令・暗殺を任務とする者達」について簡潔に言い換えるために、「士林団」、「士林組」及び「光願」という名称が後世で生まれたとも考えられ、誰がこの用語を最初に使用し始めたのかはわからないが何とも画期的である。

天心流の伝承や大藏八郞氏の「新彰義隊戦史」(勉誠出版)によると、士林団は伊賀者や甲賀者、旧武田家家臣によって構成され、前述の通り5人一組に組み分かれ、1人を組頭としていた。

そもそも大目付とは、江戸幕府において大名・高家及び朝廷を監視し、これらの謀反から幕府を守る監察官の役職であり、時期によって2~5名の旗本が任命された。

無論、その職務全てを大目付のみが担当する訳はなく、各大目付の配下には同心や御家人などから成る家臣団が存在しており、大抵の実務は大目付の命令を受けた家臣団達が担っていたと考えられる。

なお、歴史研究家の河合敦氏によると、3代将軍・徳川家光の時代には大目付の密偵が各藩に放たれて諜報活動を行っていたとされ、士林団との関連性が伺える。

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