「神様になった日」で学ぶ障害者福祉の現実と希望

アニメ「神様になった日」において、ヒロインの佐藤ひなは「ロゴス症候群」と呼ばれる架空の病気を患っている。

ロゴス症候群は、脳委縮と神経原性筋萎縮が同時に起こる先天性の不治の病とされており、成長するにつれて筋力が低下し、死に至る。

ひなはこの病気のため幼いころは立つことも言葉を話すこともできなかったが、祖父の興梠博士が発明したチップ型量子コンピューターを体に埋め込まれたことで、障害を克服したのである。

こうしたロゴス症候群の存在を軸に物語が展開する中、配信先の1つであるニコニコ動画では、アニメ終盤からキャラクターの言動や扱いを巡って論争が起きていた。

第10話にて、主人公の成神陽太はサナトリウムに入ったひなと対面し、強いショックを受ける。

開頭手術を受けたひなは言葉を話せず、大声や男性にひどく怯えるようになっていた上、体が不自由になって心を閉ざしていたため、介護職員の司波素子による世話が必要不可欠な状態であった。

そんな彼女の様子を見て、ひなを連れ帰るつもりでいた陽太は心が揺らぐが再度決心し、続く第11話から陽太は家族の似顔絵カードをひなに見せたり、彼女が好きなテレビゲームをやらせてみるが、ひなは度々怯えてパニックを起こしてしまう。

そして第12話、陽太は施設からの退去を勧告され、司波はひなと一緒に海外の施設に移ることが決定していた。

しかし、陽太とひなが施設を去る日、ひなが「陽太、好き」と言葉を発しながら陽太に向かって歩いたことで、司波は陽太の希望を受け入れた。

陽太がひなを連れて成神家に帰ると仲間たちが集まり、陽太の妹・空による映画撮影が再開された。

記憶喪失前のひなが参加していたこの撮影に、体の不自由なひなも出演したことで映画は完成する。

そして陽太は大学を受け直し、ひなの病気を治すと決意するところで、物語の幕は閉じた。

こうした物語終盤の展開に対し、ニコニコ動画の視聴者達は多くの批判的なコメントを残した。

その多くは、「何故、陽太はひなを無理やり施設から連れて帰ったのか。適切な介護を受けられる施設から無理矢理ひなを連れ去ることは、ひなという障害者に対する迫害ではないか」「体が不自由になったひなを無理矢理施設から連れ去り、映画の撮影にまで出演させるシーンを見せることは、24時間テレビのように障害者をネタとした感動ポルノではないか」といった旨の批判で、主に陽太の言動や物語の展開に対しての厳しい意見が散見された。

しかし、果たして陽太の言動は本当に誤りだったのであろうか。

本当に「神様になった日」は障害者をネタとした感動ポルノなのだろうか。

上記のような批判的な意見からは、「障害者は施設にぶち込んでおけば良い」「障害者のことなど放っておけば良い」というハンディキャップに対する迫害とも思えるような潜在意識を感じられる。

まず、陽太の言動の中でも特に批判の的となった「ひなを施設から連れ帰ったこと」については、ひなが陽太に対して成神家に帰る意思を自ら表明したため、両者同意の上での退院及び帰宅という点で何の問題も無い。

「ひなを施設から出してしまうことで、ひなは障害者として適切な介護を受けられなくなってしまうのではないか」という意見もあるが、これこそが健常者と障害者の間で「障害者福祉に対する考え方のギャップ」を生み出してしまっている。

そもそも、障害者は自ら進んで施設に入りたいと思っている訳ではないし、現在では在宅でも様々な福祉サービスを受けることが出来る。

障害者が施設への入所を決める動機は、「家族や周りの人達に迷惑をかけたくない」「本当は健常者と同じような普通の社会生活を送りたいが、誰かの支えなしでは生活できない」という消極的な理由からである。

しかし、作中におけるひなのように、障害があっても周りの人々から歓迎され、再び映画出演する際も自分のペースで出来る範囲の演技をすることを許されるなど、陽太をはじめとした健常者達が障害者の意思を尊重出来る環境が整っていれば、障害者は施設へ行かずとも健常者と共存出来る。

また、感動ポルノの定義として「障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思いではなく、積極的・前向きに努力する(=障害があってもそれに耐えて・負けずに、乗り越えようと頑張る)姿がクローズアップされる」「『清く正しい障害者』が懸命に何かを達成しようとする場面をメディアで取り上げること」というものがある。

しかし、ひなはゲームで失敗すると癇癪を起こして陽太を困らせるなど、本人にとって困難なことや嫌なことについてはっきりと意思表示するシーンが多く、「積極的・前向きに努力する(=障害があってもそれに耐えて・負けずに、乗り越えようと頑張る)姿がクローズアップされる」「『清く正しい障害者』が懸命に何かを達成しようとする場面」という感動ポルノ的要素とは程遠い演出ばかりである。

むしろ、作中では上述の通りひなの意思や彼女の障害者としての経歴、障害故の日常生活における負担など、「障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思い」が非常に多く描写されており、ひなが「健常者と変わらぬ人格と人権を持ち、1人の人間として周りから尊重される障害者」として描かれていることがわかる。

ひなが再びバスケに興味を示した際も、自らの意思でシュートを練習しており、決して陽太達に無理強いされることは無かった。

「神様になった日」には障害者への迫害や感動ポルノ要素など無いどころか、むしろ現実における健常者と障害者の共存を実現するためのヒントが多く描写されている。

例えば、陽太はひなのために徹夜でゲームをプレイし、プレイヤーレベルを上げてより簡単にゲームが進行出来るよう工夫した。

こうした障害者に対する配慮と調整は、介護者に対して重い負担をかけてしまうが、障害者にとっては大変ありがたいことである。

雇用などにおいても同じことが言える。

障害者が職業に従事するためには、雇用主が仕事内容の見直しや調整を行って簡易化させ、障害者でも無理なく仕事が出来るようお膳立てする必要がある。

しかし、お膳立てに際しては、その分他の健常者のスタッフにも負担をかけることになり、予算も必要となるので簡単なことではない。

こうした現状が、日本で障害者雇用が根付かない原因でもあるが、真に健常者と障害者の共存を目指していくのであれば、社会全体における意識改革が必要と言える。

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